同期会・同窓会ひろば

50年の¨空白¨を取り戻す古希前に「海城 36会」が念願の修学旅行を実現
昭和36年に海城高校を巣立った卒業生の同窓会「海城36会」が10月27・28の両日、50年ぶりに修学旅行を実現。この年の卒業生約350人のうち37名が参加し、世界遺産に登録された¨みちのく奥州¨の名刹・中尊寺を中心に1泊2日のバス旅行を楽しんだ。
海城高校の永い歴史を通して修学旅行が行われなかったのは、昭和36年の卒業生だけである。当時、前年の修学旅行で不祥事が起きたことを受け自粛の意味を込めて見送られたものだった。この事実は今や学校関係者にはほとんど知られていないが、一部では高校の唯一の¨汚点¨として意識の底に深く刻み込まれていた。
「海城36会」でも、当事者として同窓会のたびにこの事が話題になっていた。「何か大事なものを忘れてきた」という感概を持つ同窓生も多く、自然発生的に「みんなで¨忘れ物¨を取りに行こうじゃないか」という声が上がり衆議一決。東日本大震災の被災地を少しでも元気付けたいという意向も働いて、東北での「50年目の修学旅行」が実現した。
当日の27日早朝は新宿駅西口に集合。総勢37人の中には奈良や浜松、甲府から駆けつけ、盛岡から現地集合の同窓生もいた。
「36会」の会長就任前に、6年前急逝した大西進君は遺影で参加。バスは高速道路を一路北上、松島に直行したが、車中での自己紹介ではそれぞれが自身の人生模様や現状を語り、中で役者として実績を持ち、齢70を前にして劇団を旗揚げした溝口舜亮君は(口あいて 臓物(はらわた)見せる石榴(ざくろ)かな」の心境頑張ります」と演劇への決意と支援を訴えた。
「修学旅行でアルコールは如何なものか?」の声もよそに早くもメートルを上げる仲間もいるなど道中、大いに盛り上がる。松島では日本三景を船で堪能した後、宿泊地秋保温泉に到着。食事に続いて二次会三次会と宴が続き、50年の時間を取り戻すように、一行は歓談に時間を忘れた。
2日目の28日は厳美渓、そして藤原氏三代の栄華を今に伝える毛越寺、平泉・中尊寺を見学し、午後9時前帰京。最後に古希を迎える平成24年、盛大に古希の会を開催することを申し合わせ、またの再会を約して散会した。
写真1 松島クルーズ波止場
写真2 秋保温泉 枕投げ前
写真3 中尊寺
以上
36会 書記 滝本 喬
海原会昭和25年同期会
▼胸突き八丁「傘寿」迎える
○日 時;平成23年10月13日
○場 所;「うすけぼー」南青山店
○出席者;20名
秋も深まってきた10月13日、恒例の年次同期会を南青山の「うすけぼー」で開催。
昭和25年(一九五〇年)海城高校卒のわれわれは、今年から来年にかけて、人生の八合目辺り、胸突き八丁の傘寿(満80才)を超える。平均寿命をやや上回ったわけで、まずは同慶の至り。
しかし、同期の仲間約40%が鬼籍に入っており、寂しさを禁じえない。
顧みると、われわれは戦争末期の昭和19年に入学のあと、翌20年には終戦、多くの仲間が目指した「海軍士官」の夢は消えた。
それから、高卒までの5年間は、「解放」と「自由」の風潮がうねるように高まった時代、学業のかたわら、スポーツや文化活動になど、「部活」も大いに楽しんだ。
このように、われわれは、まさに世の誰も経験したことのない大変な激動の時代を駆け抜けてきた。そうした少年から青春期、そして厳しい社会生活も60余年の彼方に流れ、人生80年の節目の同期会となった。
この日は、世話人の尾上武郎君を進行役とし、永遠の旅に立った仲間たちの冥福を祈って黙祷を捧げ、足立和君の開会挨拶、秋山哲児君の乾杯音頭で宴に入る。すぐに談笑の輪が広がった。話題は、過ぎし日々の想い出やお互いの健康、そして家族のことなど、会場は大いに盛り上がった。
宴たけなわ、この同期会の運営について各自が意見を述べたが、「止めよう」といった消極論は全くなく、なかには「出席者が2人なるまでやるべし」という提案もあり、今後の続行を申し合わせた。友よ! 来年もぜひお会いしましょう。なを、秋山君の祖父・秋山好古が主人公のひとりである「坂の上の雲」第3部(NHKスペシャル)が12月5日(日)始まる。
(梅沢喬二 記)
昭和56年卒6年7組村沢君を偲ぶ会のお知らせ
昭和56年卒、6年7組の村沢正二君が平成21年1月11日に急逝し、その後、毎年有志数名で村沢君を偲ぶ集いを開催しています。
次回は、平成24年1月14日(土)に新宿歌舞伎町界隈にて行う予定です。
時間や場所は未定ですが、現在、8名程度の参加が確定しております。
本投稿をご覧になって、参加を希望される方がいらっしゃいましたら、「海原会へのお問い合わせ・ご連絡」までご一報ください。
平成5年卒3組クラス会
2011年6月に平成5年卒3組のクラス会を実施。参加人数は13名でした。
大勢で集うのは、亡くなった同級生杵村君の葬式以来、ほぼ10年ぶり。
1次会の前に来られるやつは早めに集まろうという話が、ゼロ次会という会合になり、なんと11名が集合。
林先生をお呼びしての1次会前に、大半がへべれけという状態になりました。
卒業以来初めて顔を合わせるケースも続出で大盛り上がり。この会を機に、facebook等で居場所を確認し、プチ同窓会として気軽に会うケースが急増しています。
海城祭・見てある記『どうしても褒めてあげたい』(2)
今年の海城祭は、120周年を記念して、「変遷」を旗印に盛り上げた。
そうか、1世紀とちょっとかぁ?歴史を感じる者にとっては、海城創立は日本が生まれたての文明開化に相当するだろう。その間の「変遷」はめぐるましい事象だったに違いない。
今回初めての生徒の文化祭実行委員会の企画で、3階から6階までの階段の壁面を利用して、海城の「変遷」を少しでも知って貰おうと海原会の協力で実現した。それではお手並みを拝見しよう。
◆これはスバラシイ!
何よりも驚いたのは自分の言葉で書いてるんだなあ。
よく勉強してるよ。ご立派。例えばこんなことが書いてある。
中段の写真を拡大すると、
≪海城の創設者ってどんな人?≫
むずかしいと思ったのか、
≪何か身近に海城の歴史がわかるものないの?≫
≪ハイ、2つあります≫とか
これがいいんだな、演出効果も満点だ。
ただ残念だなぁ。会談の壁面は上り下りが激しくて、ゆっくり見られない。
全版の紙に13点。きっと夏休み返上でギリギリまで書いたに違いない。
見事な出来栄えだなあ。大人顔負けだよ。褒めてあげたい。
◆(下段の写真)この指揮者誰だかわかる?
甲子園に向けて海城野球の応援に行かれた方なら判るだろう。海城吹奏楽団の一員で、大田君と言ったかなあ。行くとこ、野球が勝っても負けても応援団席の一角で懸命にゲームに背を向けて指揮棒を振っている。
いた居た!教室のミニステージでアンサンブルを組んで準備をしていた。
たまらずマイクを持って解説をさせて頂いた。彼の野球場でのね。
満員のお客から拍手を頂いた。彼の指揮ぶりはカラヤンか、はたまた小沢征爾か、そんな感じ??。
彼の演奏が始まった。あのリズミカルな演奏と思いきや、ビックリした。現代クラシックの不協和音的な演奏ではないか。私にはそう感じた。
これは吹奏楽の域を脱している。いわゆるウインドアンサンブルだな。
彼の熱演する姿はスバラシイ。もう来年の指揮演奏は見られない。無念
そう思うと、どうしても褒めてあげたい。
リニューアル以前の記事は旧 広場で見られます。