クラブ・委員会ひろば

硬式テニス部昭和49年卒メンバーへ
硬式テニス部OB(昭和49年卒)の佐生和彦と申します。
2022年12月会報の訃報欄で、同期の七浦和典君の名前を拝見しました。驚きと共に卒業以来会っていない同期メンバーの顔が浮かびました。
できれば年齢70になる前にぜひ何人かでも集まれる機会が持てれば七浦君との思い出話もできるのではないかと考え本欄に投稿しました。
そこで、硬式テニス部昭和49年卒のメンバーの皆さん、まずはご連絡先をお知らせいただけると幸いです。また、連絡の取れるメンバー情報などありましたら併せてお知らせください。
よろしくお願いいたします。
【連絡先】 sas-kk1@ezweb.ne.jp (佐生和彦)
文実・生徒会OB会新年会
コロナ禍でしばらく「オンライン新年会」続きだったが、久しぶりにお店に集まって会食。
今回初参加の若いメンバーも加わり、「これからの働き方」など熱い議論が展開される場面も。
それでもやはり母校愛の強い面々なので、近況報告をしていても当時の思い出話に花が咲く。
20~30代の若手交流会も近日中に開催予定なので、ご興味のある方はお気軽に「文実・生徒会OB会」津村までご連絡を。
kaijo.bunsei.ob@gmail.com
定期演奏会
4月3日、3年振りに母校海城高校の「海城吹奏楽団」の記念すべき第三十回定期演奏会が「中野ZEROホール」で午後17時30分開場、18時開演で開催された。
来場者は開演前から列を作って並んでたが、海原会の人は、コロナ禍の性か常連を含めて少なかったのが残念。学校側からは今年の4月に新校長となられた「大迫弘和」氏や内田教頭、八塚教頭。海原会からは、元副会長の「池内夫妻」元総務部長の「福島氏」広報委員長の私が参加した。
最初、演奏時間前に8名に依るアンサンブル紹介で始まり、18時から第一部(齋藤亮次先生)「Where E agles S ora」「Yell ow M ountains」「I n A ll Its Glory」で、司会者(2人)の紹介を基に大々的に演奏をスタートした。
第二部(指揮、梅下一成)も司会者(2名)の紹介で、「銀河鉄道999」で始まり「Deep Purple M edley」が賑やかに演奏された。
第三部の前に15分間の休憩を挟んで第三部(指揮、古田剛士)も司会者(2名)の紹介で始まり「サーカスハットマーチ」アニメでお馴染みの「魔女の宅急便コレクション」「マードックからの最後の手紙」で終わりと思いきや、アンコールの曲で全て終了。残念ながら校歌の演奏は無かった。
第一部、第二部、第三部も演奏の合間に団員の紹介や、本日で演奏が最後に成る団長の福島君の挨拶もあり、バックの壁の色の変化や、団員の衣装替えもありとても有意義で久々に楽しい素敵な演奏会だった。
[開催報告]令和5年(2023年) 鉄道研究会OB会 新年会
報告が遅くなりましたが、恒例の鉄道研究会OB会の新年会を令和5年1月14日(土)に開催しました。
新型コロナの影響で実に3年ぶりの開催となりましたが、上は昭和54年卒から、下は平成31年卒まで、29名の方が参加されました。
鉄分濃い目の出席者の近況報告などは変わることなく、さらにスペシャルゲスト(海城OB)からの素敵なプレゼントもあり、予定していた2時間はとても短く感じられるぐらい盛り上がりました。
引き続き、OB会では鉄研OBや鉄道に興味のある海城OBの方の参加をお待ちしております。
随時下記までお問い合せ下さい。
海城鉄研OB会
info_kaijotekkenob@googlegroups.com
【訃報】横川経祐くん
2月4日、94代生徒会副会長の横川経祐くんが亡くなった。
在学中、横川くんの名は祐士だった。それが経祐になったのは20代になってから。僧侶であるお父さんの行く道を追い、出家したからだった。
海城時代は文化祭実行委員会、生徒会、バレー部、アメフト部、その他もろもろ、いろいろなところで活躍をした。運動神経抜群でいて、手先が器用で絵も字もうまい。卒業アルバムを開けば、彼が描いた恩師の似顔絵が生き生きとしている。
卒業後も、僧侶としてのお勤めの傍ら、地元のチームでバスケットボールに打ち込む日々。あまりにまじめに向き合うものだから、周りはついていくのが大変だったようだ。
そんな彼を病が襲った。半年の闘病生活の末、死去。
葬儀には、海城の関係者も多く参列した。委員会仲間、部活仲間、悪い遊びの仲間。先輩、同期、後輩。バスケットボールのチームにも海城のつながりの方が多数いた。よくもまぁ、いろいろな人と交流していたものだと思う。
横川くんは、身の丈六尺を優に超える仁王像のような偉丈夫で、かつ、歯に衣着せぬ直言居士。多くの人が感じる第一印象は「怖い人」だ。にもかかわらず、みなが語る横川くん像はというと、要するに「優しい人」ということだったと思う。ごまかしなく相手に接するその態度がそうさせるのだろう。そういえば、猫はいつも横川くんになついた。猫はわかっていたのだろう。
葬儀では横川くんの仲間の僧侶3人がお経をあげた。葬式慣れしているはずの僧侶たちが、みな、泣いていた。悲しみの涙であることは間違いないのだが、それだけでなく、一本気に生きた仲間への、感動の涙でもあったろう。
多くの人に見送られて、横川くんは旅立った。
海城で彼に出会えたことは私の幸せであった。そして、海城の仲間と彼を見送ることができたことは一生の思い出になった。
リニューアル以前の記事は旧 広場で見られます。