同期会・同窓会ひろば
平成14年卒 第7回学年同窓会
1月21日(土)に、毎年恒例の学年同窓会を開催致しました。今年は卒業10周年という事で、節目の年となりました。約15名の卒業生と、村上先生・福島先生・石塚先生の3人の先生方を交え、母校カフェテリアにて、まったりと交友を深めました。それぞれが各分野で活躍している様子や、結婚した人の話等、様々な近況報告や懐かしい話で盛り上がりました。
学年同窓会は、今後も毎年1月に開催予定です。皆さん忙しい世代?だと思いますが、是非同窓生と交流を深め、昔を懐かしむと共に、お互いいい刺激を与え合いましょう!在学時にはあまり話した事がなかった人とも、意外と話が弾むものです。案内の葉書きやメールが届いていない方は、kaijo2002-owner@yahoogroups.jpまでご連絡ください。また、「海城2002年卒」というFacebookグループを立ち上げましたので、是非こちらにもご参加ください。
(黒岩直輝 記)
濱尾甫先生を偲ぶ会
去る3月30日(金)に恩師濱尾甫先生を偲ぶ会が東京ガス四谷クラブで行われ、海城36会G組の有志14名が集まりました。
最初に濱尾甫先生を始め、伊井雅澄、伊藤明、見村俊二、吉沢豊君など物故者に対し黙祷。続いて幹事から36会同志の溝口舜亮君の舞台「裏の木戸は開いている」と寺崎央君の著書「癌一髪!」への協力のお願いがあり、各自、濱尾先生の思い出と現在の近況等を語り、今年の36会の総会6月2日(土)にこぞって参加しようと結束し散会しました。
集合写真は後列左から嶋田、鈴木、立川、下川、高崎、鯉沼、小谷野。前列右から山口、清水、中田、小田、佐藤(洋)、佐藤(佳)、杉山(敬称略)の参加者です。
画像上:集合写真
画像中:溝口君の公演のリーフレット
画像下:寺崎君の「癌一髪!」表紙
嗚呼・・・
ねっからのアナログ人間&IT原人だもので、遅ればせながらこのウェブ海原を今回初めて拝見しました。そして・・・
小林先生が、お亡くなりになったんですね。とても衝撃を受けています。
確か、先生は小生が5年位の頃に、早実からおみえになったかと記憶しています。(違ったらご容赦を。)
最初、中学を受け持たれたかして、今はなき名物の「本館」の前で、入学したての中学生達にその由来等を勇ましく解説していらしたお姿を、懐かしく想い出します。
どの号の「海原」でも、先生のクラスがクラス会とか異様に盛り上がって開催され、その集合写真の上手もしくは下手端にいつも同ポジのようにキメて写っていた先生の姿。(それもどうも文面から拝察するに、担任されていないクラスまで、垣根を越えて大同団結されて集まっておられた由、まさに先生の人徳でしょう。羨望を感じておりました。
一つ、お礼とお詫びを申し上げます。
まずお礼。6年の夏の高校野球の東東京予選。海城は初戦の神宮第一で、前評判の高かった黛投手を擁する国学院高と戦いました。小林先生はその三塁側・海城のスタンドに、ご自身の後輩である「早大鉄道研究会・応援同好班」の諸兄を連れてきて下さったのです。(早稲田って、鉄研とか漫(画)研とか、大所帯のサークルには、それぞれ趣味を同じゅうする下部組織というか同好班みたいのがあって、それがまた、優に通常のサークル並みの規模と組織になってるんですよね。)
この試合、“当時の”海城だったので、珍しくもない悲惨なスコアで負けたのですが、わが海城野球部応援史上でも最高にレベル高く、盛り上がった応援を満喫することができたのです。それこそ六大の応援水準をそのまま海城のスタンドで展開してくれた、小林先生の後輩の方のおかげでした。この日、帰りぎわ、まったく面識すらなかったその早大生の中の一人に、心から「ありがとうございました」を言いました。
そしておわびです。昨年(H23)、実はJR中央線の中で一度、先生をおみかけしたのです。お顔はもちろん、黒の(他では一度も見た事のない)「海城のスタジャン」みたいな服を着ていらしたので分かったのです。胸に海軍予備校の錨のマークが入ったやつでした。「小林先生ですよね!?」と話しかければ、磊落な先生のこと、(小生の顔などはご記憶でなくとも)「おぉ、そうだよ!」と言葉を返して下さったに違いありません。そうすればおそらくそれがきっと、生前の先生との最後の会話となったであろうに・・・。つい、照れがあって話しかけられませんでした。でも、それで良かったのでしょう。あの時もし、昔話のひとくさりなど語り合っていたら、今回のこの訃報に、さらにもっと悲痛な思いで接しなければならなかったのですから・・・。
合掌します。加茂先生、山下秀先生、そして小林先生。(高齢の先生方が多かったですから、上述の、亡くなった事を耳にできた先生以外にも、鬼籍に入られた恩師は、実はかなりいらっしゃるのかもしれません。)せめて社会に名を成す事など叶わずとも、平凡な「海の子」として、「あのときはほんとうにありがとうございました。」と、せめて一言、お礼が言いたかったものです。
五十嵐寛先生ご退職
この三月までアメフト部の顧問としてご活躍されました国語科の五十嵐寛先生がご退職されました。
先生は実に三十五年間の長きに渡り、本校の教育にご尽力されました。 ご在職中は、保健部長、教務部長、教頭など数々の要職を歴任されました。
就中、本校の、いわば黎明期に、存分に手腕を発揮され、本校躍進に多大な貢献をされましたのは衆目の一致するところであります。
教務部長時代、「五十嵐節」ともいうべき稀代の名調子での各種会議の司会進行は、いまなお、現職教員を中心として語り草となっております。
また、名にし負う博覧強記の先生としても知られました。ある日、大先輩にあたる小山先生と談論風発。戦前派の小山先生の「で、五十嵐さんは終戦はどちらで迎えられたのですかな」には苦笑を禁じ得なかったそうで、なるほど五十嵐先生ならではのエピソードと言えましょう。
その五十嵐先生をお囲みしてのアメフト顧問らによる送別会が二月中旬に行われました。席上、五十嵐先生は、「教育の効果というものは、すぐに出ずとも、二十年、否、三十年後にでることだってあるわけです。自己の信念に従って、近視眼的にならずに教育活動をするのがよいのではないでしょうか」と述べられ、一同、深く感じ入った次第です。
写真は送別会二次会でのもの。右から、林敬先生、前アメフト顧問で当日駆けつけてくださった鈴木元明先生、そして五十嵐寛先生です。
五十嵐先生の、今後の更なるご活躍を参加者一同でご祈念して散会いたしました。
五十嵐先生、本当にお世話になりました。そして、今後とも何卒おつきあい頂けます様、よろしくお願い申し上げます。
(アメフト部顧問一同)
矢作由美先生(数学科非常勤講師)ご退職
数学科の紅一点としてご活躍頂きました非常勤講師の矢作由美先生がこの三月でご退職されることとなりました。
先生のご専門は解析学。
本校ご在職中は、高校二年生および三年生をご担当され、受験指導はもとより、数学の深遠さを、奇をてらうことなく生徒へ伝えるお力には定評のあるところでした。
矢作先生に救われた、あるいは数学の魅力を教えて頂いた生徒は少なくないことでしょう。
同僚として、職員室に先生を訪ねる生徒たちの多さと、一様にほころぶ彼らの笑顔を目にして大いに尊敬するところです。
四月からは世田谷区の東京都市大学(旧武蔵工業大学)にご転出されます。新天地でのご活躍を願わずにはおれません。
さて、その矢作先生のご退職を記念して、この日(15日)は記念談話会が行われました。
これは矢作先生が所属されている数学科教員有志6人からなる勉強会(現在は「ポストモダン解析学」を講読)の成果報告を兼ねたものです(写真1は有志の面々。左から北村先生、平山先生、矢作先生、宮崎先生、小澤先生)。
矢作先生は「フレドホルム型の積分方程式」の解の存在と一意性を発表されました。
発表中、とりわけ耳目を集めたのが、これをほぼ高校数学の知識だけで明快に解説された点です。
聴衆の一人であった編集子は勉強会の有志ではありませんが、数学教育上の示唆を受けることが少なくなく、大いに勉強になりました。と同時に、多くのインスピレーションの湧く発表でもあり、その点においても大変に貴重な時間を過ごせました。
勉強会終了後、先生を交えて食事会を行い、矢作先生の本校へのご尽力を労いました(写真2。左から宮崎先生、矢作先生、平山先生、大和先生)。
幸い、今後も勉強会には来校される由。先生と数学科の友好の灯は点り続けます。
ともあれ、矢作先生、お疲れ様でした。
なお、矢作先生は18日の本校卒業式にご参加されるご予定であることを付記しておきます。
(矢作由美先生ご退職記念数学科談話会)
プログラム(於・第五会議室)
14:30~14:45 小林先生 ノルム空間と一様収束
14:45~15:00 小澤先生 バナッハ空間
15:00~15:15 宮崎先生 不動点定理
15:15~16:00 矢作先生 海城での思い出と、フレドホルム型積分方程式の解の存在と一意性
質疑応答
リニューアル以前の記事は旧 広場で見られます。